壮観の放言高論

書のこと、師匠北畑観瀾のこと、中国語関係のことを中心に気ままに書いていきます。

年末恒例

 平成最後の正月が過ぎ去った。バタバタと慌ただしく過ごしたり、ゆっくり静かに過ごしたり、国内海外旅行に行ったり、寝正月であったりと、思い思いの過ごし方をされたのではないだろうか。大晦日は必ず紅白歌合戦を見る、家族揃って初詣に行く、親戚一同集まるなど、年末年始に必ずする事柄が決まっているご家庭もあろうかと思う。今現在私自身は特に決まりごとはないが、敢えて選ぶとすればNHKの「ゆく年くる年」と「ウィーンフィルニューイヤーコンサート」を見ることくらいである。

 

 小学生の頃、毎年年末は五目寿司(ちらし寿司)を作って観瀾先生の家に持っていくことが我が家の恒例行事であった。観瀾先生直伝の五目寿司である。私の父は国家公務員であり仕事納めは12月28日であったため、29日に仕込みをして、30日に先生宅へ持っていくというパターンであった。その日に向けて母は食材を準備する。主な具材はハス、人参、干し椎茸、かんぴょう。干し椎茸を戻すなど各食材の下準備をしたら、これらをみじん切りまでではないが細かく刻み、煮物を作る容量でみりんなどの調味料を加えて煮込む。そして1日寝かせる。

 

 各家庭や地域で様々な五目寿司があるが、観瀾先生直伝の五目寿司の特徴は、酢飯に使用する酢にある。鯖などの青魚を酢でしめる酢じめをする。酢に浸して魚の旨味を全て酢に引き出す。魚を〆ることが目的ではなく、旨味を引き出すことが目的なので、酢から取り出した青魚は旨味が抜けて美味しくはないらしい。3日間くらい漬けこんだら当日に砂糖と塩を適量加えて酢の完成である。

 

 こうして事前準備をしておき、当日朝に米を五合を炊く。ここからが家族の連携仕事である。酢飯は父が担当だ。米が炊き上がると、事前に十分に水にぬらして水を吸わせ、水気をふき取った直径約45㎝の寿司桶にご飯をあけ、水で濡らしたしゃもじで軽く混ぜ合わせたら、分量の特性酢をしゃもじに伝わらせるようにして全体にかけまわす。混ぜるときはしゃもじを大きく動かして、はじめは底から混ぜるように、次に米を切るように混ぜ合わせます。ある程度酢が混ざれば、あとはダマをなくすようにしゃもじを横に切るように細かく動かす。ごはんがつぶれないように、全体が特性酢をまとってつややかに輝くまで手早く合わせます。全体に混ざったら、ここで団扇担当の私の出番である。寿司飯を広げて団扇でパタパタと扇いで冷ましていきます。疲れて動きが鈍くなると父から手が止まってるぞと煽られる。表面の熱が取れたらしゃもじで上下を返しながら、全体が人肌ほどの温度になるまで冷まします。ここで作り置きしていた具材を投入して混ぜていく。

 

 父と私が酢飯を作っている間、母は卵を焼いて細かく刻んで錦糸卵をつくる。出来上がった錦糸卵を具材を混ぜた酢飯の上にのせていく。下のご飯が見えなくなるまで錦糸卵を寿司桶いっぱいに敷き詰める。観瀾先生直伝の五目寿司(ちらし寿司)の完成だ。粗熱を冷ましたら寿司桶に手ぬぐいをかけて蓋をし、持ち運べるように風呂敷で包む。寿司桶にびっしりと詰まった五目寿司は物凄く重たくて持ちにくい。これを父が懸命に観瀾先生宅へ持っていく。私は先生に見せるために通知表を持参する。以前このブログで書いたように『先生からお小遣い』を貰うためだ。

 

 毎年恒例ということは観瀾先生も五目寿司を楽しみにしていて、呼び鈴をならすと、「まあまあ!重かったでしょう!」と笑顔で出迎えて下さる。待ち構えていたかのように寿司桶の蓋をあけると黄色の錦糸卵がびっしりと敷き詰めらているのをみて、「まあ凄い事!」と目を輝かせて褒めて下さる。

 

 私たちの訪問にあわせて先生宅では毎年年末にお餅をつく。ただお餅をつくのではなく、「自動餅つき機」でお餅をつくのだ。昭和40年代後半に最新の「自動餅つき機」を購入し所有していたのである。初めて見る「自動餅つき機」に私は興味津々であった。特に糯米が炊き上がりこね始められて丸い塊になっていきペタペタと音をたてながらつかれていく様子がとても面白くてずっと眺めていた。出来上がったお餅は適当な大きさにして丸餅にする時もあれば、四角く切る時もあった。立派な鏡餅もある。私たちは準備されたお餅を持ち帰り、お正月に頂くのだ。

f:id:hsoukan:20190122103137j:plain 自動餅つき機

 

 この年末恒例行事は私が大学に進学したころまで続いた。私にとって昭和のよき思い出の「年末恒例」である。