壮観の放言高論

書のこと、師匠北畑観瀾のこと、中国語関係のことを中心に気ままに書いていきます。

2012年5月7日 月曜日

 2012年3月末日付で離職し、私は就活の最中であった。その日はハローワークの4週間に1度の雇用給付金の認定日であり、雇用給付金いわゆる失業保険をもらうために朝からハローワークに向かった。手続きを終え、窓口で就職相談をしているときに、マナーモードにしてある私のスマホがブルブルと振動した。相談をしている最中であったため電話には出ずにいた。10数分後相談が終わって着歴を確認するとО氏からであった。普段必要な場合はメールでやり取りをしていたので、滅多なことではない限りО(オー)氏からスマホに連絡はない。一気に不安が襲い掛かってきた。すぐに折り返し電話を掛けた。О氏は冷静を装ったような口調で「今朝観瀾先生が亡くなった」と上ずった声でボソッと言った。その瞬間全身の血の気が引き体の力が抜けた。ああ、ついにこの時が来てしまった。О氏からの着歴を確認した時点で、もしかしたらと一瞬思った。そんな直観は当たってほしくなかった。観瀾先生は1年くらい前から特別養護老人ホームに入所しており、ときどき入所者に書を教えることもあると伺っていたので、元気であると思っていた。私は頭が真っ白となって思考が停止し、詳しくは帰宅してからと言うのが精一杯だった。

 

 急いで帰宅すると、О氏に電話をした。話を聞くと前日就寝するまではいつも通りで、就寝後の見回り巡回でも変化は見られなかった。早朝の見回りの時に呼吸が止まっている状態であったらしい。寝ている時に痰などが詰まって呼吸困難になった可能性もあるが、それも老衰である一つの症状ではなかろうか。重要な部分であるが記憶が定かではない。闘病で入院しての結果ではないことがせめてもの救いである。私でさえ冷静さを失い気が動転した状態であるから、О氏の心中は察するに余りある。しかし右往左往している場合ではない。私は葬儀の日時、場所を確認して電話をきると、観瀾先生の主要な門人一人一人に電話をかけ始めた。稽古日がなくなってから話す機会が減り、久しぶりの連絡が師匠の訃報とは、電話を受けた門人たちも驚いたに違いない。

 

 一通り連絡が終わるとすぐさま居間にいる父に訃報を伝えた。父は一言「そうか」と言って黙りこくってしまった。父は国家公務員であったが、もともとデザインを勉強していて近所の小売店舗に自身がデザインした包装紙が採用されたこともあった。今でも父が書いた絵画も自宅に残っている。だからこそ自分の考えを理解してくれる観瀾先生と出会い、人間性とその表現に惚れ込んだのだろう。

 

 自室に戻ると先生の作品集『天衣無縫』を開き、作品を1点1点眺めた。臨書で鍛錬して極めた筆を操る技術と、それを表現する感性。多様な表現はまさに魂の輝き、命を懸けた証である。人間の命には限りがある。しかし作品は後世まで残る(保管する環境条件などの影響はあるが)。先生は書家として、芸術家として作品を創作してきたが、その作品が世の中から認められようが認められまいが意に介していなかった。凡人は世間に認められたいと必死に願い活動をする。認められないよりは認められた方がいいにきまっていると普通は思うが、先生は違った。自身の創作活動に邪魔になるものは拒絶する。たとえそれが自身の出世や地位向上に繋がることであったとしても。それがいい悪いではない。そういう生き方だったのだ。自分の芸術の世界、創作表現を追求することに心血を注いだ。ただ一弟子としては歯がゆくてもどかしいことでもあった。比田井天来の弟子であり、天来没後は手島右卿に師事し、右卿から唯一免許皆伝を言い渡され、アメリカのボストン美術館に書家として世界で初めて作品が買い上げられた北畑観瀾。しかしその名前は書道界でもあまり知られていない。事実、比田井天来関係の書籍にもあまり登場することはない。世間は「名前が有名=いい作品」と思う傾向がある。ある意味仕方のないことではある。だからこそたくさんの方に北畑観瀾の作品を見てほしいと思う。作品の評価は見た方が自由にすればいいことだ。でもそれは作品を披露する場があってこそ叶うもの。そういう場であっても「名前が有名」な方の作品しか見ない方が多いのは残念なことだ。

 

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作品集『天衣無縫』

 

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「櫻」

 

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「聲」

 

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「日」

 

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「盛」

 

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聖武天皇 御歌」



 様々な事が思いだされる。1984年に初めての海外である中国に行った。北魏時代の書は石碑、つまり拓本からしか学ぶことができないが、当時の肉筆はどうだったのか?これを調べるために敦煌莫高窟を訪れ、北魏時代の壁画に書かれている文字を見た。この訪中が中国語を学ぶきっかけとなった。1987年には欧州にも行った。大英博物館に所蔵されている木簡の実物を見た。学生時代のこうした海外の体験は私の血となり肉となった。貴重な財産だ。どれもいい思い出である。

 

 訃報を聞いたときは驚いて思考が止まったが、不思議と悲しさは感じなかった。否、感じることを通り越して麻痺してしまったのだ。師を失ったことの精神的なダメージは私の想像を遥かに超える大きさと深さであった。以来、私は創作活動をしていない。出来なかったのだ。墨をすり筆を持つ気持ちにはならなかった、なれなかった。その間に出品した作品(臨書展なども)はすべて2012年以前に制作したものばかりである。

 

 2019年5月7日。あれから7年経った。この文章を書くことで一つの区切りとすることが出来る。先生と出会い学んだことを自分の生きる肥やし、創作活動の糧としていく。

  今は私を育てて下さったことに感謝しかない。