壮観の放言高論

書のこと、師匠北畑観瀾のこと、中国語関係のことを中心に気ままに書いていきます。

顔真卿

 今年1月、東京国立博物館平成館で開催された「顔真卿 ―王羲之を超えた名筆―」を見に行った。顔真卿の『祭姪文稿』が日本初公開と大々的に宣伝され話題を呼んだ。私自身は90年代に台湾故宮博物院で1度見たことがあるので今回で2度目となる。

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 会場内は甲骨文から始まって篆書、隷書、行書、草書、楷書と文字の成り立ちと変遷、その時代の代表的な作品が実物や拓本で展示されており、誰もが理解できるように工夫されていた。どれも普段は書籍や印刷物でしか見ることが出来ない貴重なものばかりである。

 

 顔真卿の『祭姪文稿』の書かれた背景や内容については既にたくさんの書籍や書評があるのでここでは割愛するが、顔真卿の肉筆である『祭姪文稿』が今日現存していること自体が奇跡である。『祭姪文稿』『祭伯文稿』『争座位文稿』を「三稿」と称して顔真卿の行草書の名品と評価されている。「三稿」のうち『祭姪文稿』以外の『祭伯文稿』『争座位文稿』は真蹟が失われ、拓本としてのみ見ることができる。かつて中国は1966年~1976年の10年間の文化大革命で貴重な文化財を破壊しつくした。もし『祭姪文稿』がずっと中国に保管されていたならこの世から消滅していたかもしれない。この点にかんしては蒋介石、国民党がよくぞ台湾に持ち出してくれたと感謝するしかない。

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『祭姪文稿』(全文)「顔真卿 ―王羲之を超えた名筆―」図録より

 

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『祭姪文稿』(拡大)

 

 書家が臨書をする上で、肉筆か拓本かではその碑法帖を理解するのに雲泥の差といっていいほど違う。当たり前であるが肉筆は筆の穂先の動きや速度、強弱が理解しやすい。墨の濃淡や掠れ(掠筆)も一目瞭然である。筆意や筆勢、筆圧なども読み手(書き手)のレベルにもよるが把握しやすい。言わば生きた教材である。だからと言って肉筆からの臨書が簡単であるということではない。

 

 これが拓本だと全く違う。石に文字を書きそれを刻む。この段階で実際に書かれた文字と彫られた文字に差が生じるであろう。さらに石に墨を塗って拓をとる。石は摩耗し風化する。拓を取った年代や取り方によって文字の趣が変わる。拓本では周囲が黒、文字が白抜きとなる。拓本から筆意や筆勢を読み取るのは難しい。言わば死んだ教材である。しかしそれが拓本からの臨書の奥深いところでもある。想像力も必要だ。その拓本の文字を実際に筆で書いたらどうなるか、拓本の臨書はつまり想像の産物である。どれが正解かわからない。何故なら肉筆が残っていないので答え合わせが出来ないからだ。ここに難しさがある(甲骨文、金文の拓本は除く)。「死(無)」から「生(有)」を産む作業ともいえる。

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『顔勤礼碑』 「二玄社 中国法書選 42:顔勤礼碑」 より

 

 顔真卿といえば「三稿」よりも「顔法」(新法)の名称の方が世間では知名度が高いかもしれない。『祭姪文稿』などの「三稿」は見ての通り行草で書かれている。そこには円錐の筆を自由自在に全面をつかう八面出鋒、つまり王羲之の書法を見出すことができる。王羲之の書法とは何か?王羲之の書法とは古法である。顔真卿の新法にたいして古法と表現している。では顔法(新法)とは何か?これは主に顔真卿の楷書の筆遣いで、王羲之の古法が筆の全面を使う八面出鋒、側筆を基本としていることに対して、顔法(新法)は蔵鋒での直筆を基本としている。欧陽詢、虞世南、褚遂良によって築かれた楷書の典型の上に立脚しつつ顔真卿独自の風味が加味された。蚕頭燕尾(起筆がまるく蚕のあたまのようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つにわかれている)と評される。直筆なので筆を動かすのに自然と制限がかかり、線に厚みと深みがでる。また、顔真卿の楷書はその形から現在の活字のもとにもなった。

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『自書告身帖(建中告身帖)』 「台東区書道博物館図録」より

 

 重要なことは顔真卿王羲之の書法である古法をマスターしていたということだ。古法をマスターしてこその新法なのである。事実、顔真卿以降(唐時代以降)の書は徐々に俗っぽくなっていく。それは新法が流布した弊害でもあろう。新法は学びやすい。学びやすいという事は崩れやすいということでもある。初学の人がいきなり新法から学ぶのはこれと同じであり、俗っぽい書しか書けなくなる。比田井天来は臨書の模範になるものは、中国は唐以前、日本は平安の三筆までがいいと提唱している。さらに言うなら唐以前であっても顔真卿の楷書である顔法(新法)は順番としては古法を学んでから学ぶべきであろう。

 

 楷書のイメージが強い顔法(新法)だが、「三稿」のひとつである『争座位文稿』は、行草の中に自然と顔法の要素が加わっているのが顕著である。『祭姪文稿』よりもその傾向が強い。『祭姪文稿』は758年、『争座位文稿』は764年に書かれている。楷書の『顔勤礼碑』は779年(759年という説もある)、『自書告身帖(建中告身帖)』は780年と、顔法で有名な楷書は晩年に多い。書かれた年からも『祭姪文稿』よりもあとに書かれた『争座位文稿』がより顔法の要素が顕著であるのは自然なことである。そういう意味では、古法と新法の両方で表現されている『争座位文稿』が私の中では顔真卿の最高傑作である。もし『争座位文稿』の真蹟が現存していたら、『祭姪文稿』以上の評価であったに違いない。

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『争座位文稿』 本人所有の拓本より