壮観の放言高論

書のこと、師匠北畑観瀾のこと、中国語関係のことを中心に気ままに書いていきます。

白寿記念展

 2008年5月16日 ~ 21日、北畑観瀾先生の99歳の祝いを兼ねて「白寿記念展」を東京都品川区大崎にある「O(オー)美術館」で開催された。この書展は企画立案から開催まで全て門人のOK氏が行った。陳列する作品はOK氏所有しているものと観瀾先生ご自身が自宅で保管しているものの中から厳選して展示することになった。

 

 OK氏は古参の門人であり、御主人が茨城県水戸市で整形外科を営んでいたため、スポンサー的な立場でもあった人物である。潤沢な財力で観瀾先生の作品を多数購入しており、将来は北畑観瀾美術館をつくるのが夢だと語っていた。その夢は残念ながら実現することはなかった。

 

 様々な方がご来場下さったが、天来書院の比田井和子さんもご多忙の中わざわざ見に来て下さった。比田井和子さんは書家比田井南谷の長女、つまり比田井天来のお孫さんであり、「天来書院」という書道専門の出版社を経営しつつ、天来が提唱した学書の普及に努めておられる方である。

 

 私は和子さんとは面識があったので、前々から比田井天来に発掘され教えを受けた観瀾先生と天来のお孫さんである和子さんを是非引き合わせたいと思っていた。99歳の観瀾先生は特別な事でもない限り遠くまで外出しないし、今回を逃せば二度とチャンスはないかもしれない。和子さんも天来書院を切り盛りしながら各書団との交流もあり非常にお忙しい。先生が会場にお見えになる日、時間を予め和子さんに連絡してはいたが、当日の朝になって突然キャンセルということもあり得るので何事も起きないことを祈った。

 

 当日、予定時間になると観瀾先生が来場された。しばらくして和子さんもいらした。私は和子さんを観瀾先生に紹介した。書のことについて話をしたあと記念写真を撮影した。念願が叶った瞬間であったが、あと10年、いや15年早く観瀾先生が和子さんとお会いしていれば、学書としての書、芸術としての書、先生の書に対する考えなどより深い話が出来たのではないかと思うと残念でならない。

 

 この日の出来事を和子さんは天来書院の「酔中夢書」2008年5月18日付のブログで紹介して下さった。

http://www.shodo.co.jp/blog/hidai/2008/05/post-116.html

 

 天来直門でありながらあまり名前が知られていない北畑観瀾。今では考えられないが、以前は漢字は男性、仮名は女性が習うものだという風潮があった。いわゆる「お習字」的な町中の寺子屋式の書道塾で習うレベルではなく、女性である観瀾が「学書」を天来から直接学んだことは当時としては非常に稀であったことは想像に難くない。しかも天来自らが声をかけ東京に呼び寄せたのであるから、天来の期待の度合いがどれほど高かったことか。

 

 また、観瀾は「女流」という言葉や表現が嫌いであった。芸術に男も女も関係ないと常々言っていた。しかし今現在も「女流書展」「女流書家」などの表現が大々的に使用されている。どうして自らで枠をはめてしまうのだろうか。枠をはめた分世界が狭くなってしまう。「男流書展」もないし「男流書家」とは言わない。当時は今以上に男性社会であった漢字を主とした書道界の中で、女性である観瀾が自己を貫くことは相当に厳しいことであったはずだ。

 

 この白寿記念展ではそんな人間北畑観瀾が魂を込めて創り出した数々の代表的な作品を観ることができた。

 

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                 『榮』

 

 

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                 『眼』

 

 

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                  『安』

 

 

 歴史にたらればはないが、もし北畑観瀾が男性であったら、比田井天来亡き後の書道界の構図は今とは違ったものになっていたかもしれない。いや、なっていたと思いたい。