壮観の放言高論

書のこと、師匠北畑観瀾のこと、中国語関係のことを中心に気ままに書いていきます。

白寿記念展

 2008年5月16日 ~ 21日、北畑観瀾先生の99歳の祝いを兼ねて「白寿記念展」を東京都品川区大崎にある「O(オー)美術館」で開催された。この書展は企画立案から開催まで全て門人のOK氏が行った。陳列する作品はOK氏所有しているものと観瀾先生ご自身が自宅で保管しているものの中から厳選して展示することになった。

 

 OK氏は古参の門人であり、御主人が茨城県水戸市で整形外科を営んでいたため、スポンサー的な立場でもあった人物である。潤沢な財力で観瀾先生の作品を多数購入しており、将来は北畑観瀾美術館をつくるのが夢だと語っていた。その夢は残念ながら実現することはなかった。

 

 様々な方がご来場下さったが、天来書院の比田井和子さんもご多忙の中わざわざ見に来て下さった。比田井和子さんは書家比田井南谷の長女、つまり比田井天来のお孫さんであり、「天来書院」という書道専門の出版社を経営しつつ、天来が提唱した学書の普及に努めておられる方である。

 

 私は和子さんとは面識があったので、前々から比田井天来に発掘され教えを受けた観瀾先生と天来のお孫さんである和子さんを是非引き合わせたいと思っていた。99歳の観瀾先生は特別な事でもない限り遠くまで外出しないし、今回を逃せば二度とチャンスはないかもしれない。和子さんも天来書院を切り盛りしながら各書団との交流もあり非常にお忙しい。先生が会場にお見えになる日、時間を予め和子さんに連絡してはいたが、当日の朝になって突然キャンセルということもあり得るので何事も起きないことを祈った。

 

 当日、予定時間になると観瀾先生が来場された。しばらくして和子さんもいらした。私は和子さんを観瀾先生に紹介した。書のことについて話をしたあと記念写真を撮影した。念願が叶った瞬間であったが、あと10年、いや15年早く観瀾先生が和子さんとお会いしていれば、学書としての書、芸術としての書、先生の書に対する考えなどより深い話が出来たのではないかと思うと残念でならない。

 

 この日の出来事を和子さんは天来書院の「酔中夢書」2008年5月18日付のブログで紹介して下さった。

http://www.shodo.co.jp/blog/hidai/2008/05/post-116.html

 

 天来直門でありながらあまり名前が知られていない北畑観瀾。今では考えられないが、以前は漢字は男性、仮名は女性が習うものだという風潮があった。いわゆる「お習字」的な町中の寺子屋式の書道塾で習うレベルではなく、女性である観瀾が「学書」を天来から直接学んだことは当時としては非常に稀であったことは想像に難くない。しかも天来自らが声をかけ東京に呼び寄せたのであるから、天来の期待の度合いがどれほど高かったことか。

 

 また、観瀾は「女流」という言葉や表現が嫌いであった。芸術に男も女も関係ないと常々言っていた。しかし今現在も「女流書展」「女流書家」などの表現が大々的に使用されている。どうして自らで枠をはめてしまうのだろうか。枠をはめた分世界が狭くなってしまう。「男流書展」もないし「男流書家」とは言わない。当時は今以上に男性社会であった漢字を主とした書道界の中で、女性である観瀾が自己を貫くことは相当に厳しいことであったはずだ。

 

 この白寿記念展ではそんな人間北畑観瀾が魂を込めて創り出した数々の代表的な作品を観ることができた。

 

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                 『榮』

 

 

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                 『眼』

 

 

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                  『安』

 

 

 歴史にたらればはないが、もし北畑観瀾が男性であったら、比田井天来亡き後の書道界の構図は今とは違ったものになっていたかもしれない。いや、なっていたと思いたい。

不思議な光


 神奈川県伊勢原市、大山の麓にある曹洞宗龍泉寺」に北畑家のお墓がある。観瀾先生の弟子であるF氏の実家がその「龍泉寺」で、先生は色々とF氏を援助したことがあり、F氏は感謝のしるしとして実家の「龍泉寺」にお墓を建てる便宜を図った。そういったご縁で龍泉寺に北畑家のお墓が建立された。

 

 「北畑」は淡路島出身の父方の姓であるが、母方の姓は「宮成」であり、全国に4万社あまりある八幡宮総本宮宇佐神宮」の大宮司の家系である。母親は大宮司の家系でありながら神仏を信じるなと自身の子供たちに言い聞かせていたというユニークな方であった。だから観瀾先生は曹洞宗の信者であったわけでも何でもない。

 

 その日は七七日忌、いわゆる四十九日の法要であった。葬儀以来久しぶりに主要な門人が揃った。玄関正面に観瀾先生の作品『禅』が掛かっている。控室には渋谷西武で開催した個展出品作品である『剛』も掛かっていた。

 

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                  『禅』

 

 

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                  『剛』

 

 

 時間になると本堂で法要が行われた。本堂の両脇には臨済録にある「日上無雲、麗天普照、眼中無翳、空裏無花」という言葉を木彫りした対聯が掛かっている。これはもともと独立書人団の抱土社展に出品した『聯』という作品を表現を変えて新たに書き直し彫ったものである。肉筆の作品は線の厚みや暖かさと存在感を出すために直截的な表現であるのに対し、木彫りの作品は、直截的な表現に動きを持たせ彫りやすいような表現となっている。また、位牌を安置する部屋用に白黒を逆転させたものも製作された。

 

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              本堂に掛かる対聯

 

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    『聯』「日上無雲、麗天普照、眼中無翳、空裏無花」(臨済録より)

 

 

 法要が終わると聯に近づき、一文字ずつ筆遣いを目で確認しながら速度、リズムなどの筆の動きを頭の中で思い浮かべた。この部分は褚遂良の『雁塔聖教序』、この部分は顔真卿の『争座位文稿』、『木簡残紙』の表現もありますねと、門人たちと話をしながら先生を思い偲んだ。この作品は古典の筆遣いをふんだんに使っているから、見た感じでは簡単に書けそうな感じがするがその実そうではない。書き始める前には色々とどう表現するか考え、実際に揮毫している時も意識して書いているはずであるが、出来上がった作品は作為的ではなく、自然の流れで書かれたように見えるところが凄い。ひとたび筆を持って書き始めれば古典の臨書で身に着けた表現が自然と湧き出してくるのでしょう。古典の臨書を写実的に追及することの大切さを改めて感じますね、とO(オー)氏と話をしながら『聯』の写真を何枚か撮った。

 

 自宅に帰って写真を確認していると、1枚の『聯』の写真に不思議な光が写っている。神々しい光を帯びた丸い光の球体だ。私は見た瞬間に観瀾先生だと直感した。この世には科学では説明できないことがある。逆に説明できないことが、その存在を肯定することにもなる。光の加減でそう見えるだけなのかもしれない。でも私は観瀾先生の魂だと信じたい。O(オー)氏や他の門人が撮った写真も確認してもらったが写っていなかった。私が写したこの1枚にしか写っていなかった。O(オー)氏と書のことを話しながら撮影している時、「そうそう、よー言った!」と観瀾先生もきっと嬉しそうに話を聞いていたのでしょう。

 

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                 不思議な光

 

 

 

2012年5月7日 月曜日

 2012年3月末日付で離職し、私は就活の最中であった。その日はハローワークの4週間に1度の雇用給付金の認定日であり、雇用給付金いわゆる失業保険をもらうために朝からハローワークに向かった。手続きを終え、窓口で就職相談をしているときに、マナーモードにしてある私のスマホがブルブルと振動した。相談をしている最中であったため電話には出ずにいた。10数分後相談が終わって着歴を確認するとО氏からであった。普段必要な場合はメールでやり取りをしていたので、滅多なことではない限りО(オー)氏からスマホに連絡はない。一気に不安が襲い掛かってきた。すぐに折り返し電話を掛けた。О氏は冷静を装ったような口調で「今朝観瀾先生が亡くなった」と上ずった声でボソッと言った。その瞬間全身の血の気が引き体の力が抜けた。ああ、ついにこの時が来てしまった。О氏からの着歴を確認した時点で、もしかしたらと一瞬思った。そんな直観は当たってほしくなかった。観瀾先生は1年くらい前から特別養護老人ホームに入所しており、ときどき入所者に書を教えることもあると伺っていたので、元気であると思っていた。私は頭が真っ白となって思考が停止し、詳しくは帰宅してからと言うのが精一杯だった。

 

 急いで帰宅すると、О氏に電話をした。話を聞くと前日就寝するまではいつも通りで、就寝後の見回り巡回でも変化は見られなかった。早朝の見回りの時に呼吸が止まっている状態であったらしい。寝ている時に痰などが詰まって呼吸困難になった可能性もあるが、それも老衰である一つの症状ではなかろうか。重要な部分であるが記憶が定かではない。闘病で入院しての結果ではないことがせめてもの救いである。私でさえ冷静さを失い気が動転した状態であるから、О氏の心中は察するに余りある。しかし右往左往している場合ではない。私は葬儀の日時、場所を確認して電話をきると、観瀾先生の主要な門人一人一人に電話をかけ始めた。稽古日がなくなってから話す機会が減り、久しぶりの連絡が師匠の訃報とは、電話を受けた門人たちも驚いたに違いない。

 

 一通り連絡が終わるとすぐさま居間にいる父に訃報を伝えた。父は一言「そうか」と言って黙りこくってしまった。父は国家公務員であったが、もともとデザインを勉強していて近所の小売店舗に自身がデザインした包装紙が採用されたこともあった。今でも父が書いた絵画も自宅に残っている。だからこそ自分の考えを理解してくれる観瀾先生と出会い、人間性とその表現に惚れ込んだのだろう。

 

 自室に戻ると先生の作品集『天衣無縫』を開き、作品を1点1点眺めた。臨書で鍛錬して極めた筆を操る技術と、それを表現する感性。多様な表現はまさに魂の輝き、命を懸けた証である。人間の命には限りがある。しかし作品は後世まで残る(保管する環境条件などの影響はあるが)。先生は書家として、芸術家として作品を創作してきたが、その作品が世の中から認められようが認められまいが意に介していなかった。凡人は世間に認められたいと必死に願い活動をする。認められないよりは認められた方がいいにきまっていると普通は思うが、先生は違った。自身の創作活動に邪魔になるものは拒絶する。たとえそれが自身の出世や地位向上に繋がることであったとしても。それがいい悪いではない。そういう生き方だったのだ。自分の芸術の世界、創作表現を追求することに心血を注いだ。ただ一弟子としては歯がゆくてもどかしいことでもあった。比田井天来の弟子であり、天来没後は手島右卿に師事し、右卿から唯一免許皆伝を言い渡され、アメリカのボストン美術館に書家として世界で初めて作品が買い上げられた北畑観瀾。しかしその名前は書道界でもあまり知られていない。事実、比田井天来関係の書籍にもあまり登場することはない。世間は「名前が有名=いい作品」と思う傾向がある。ある意味仕方のないことではある。だからこそたくさんの方に北畑観瀾の作品を見てほしいと思う。作品の評価は見た方が自由にすればいいことだ。でもそれは作品を披露する場があってこそ叶うもの。そういう場であっても「名前が有名」な方の作品しか見ない方が多いのは残念なことだ。

 

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作品集『天衣無縫』

 

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「櫻」

 

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「聲」

 

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「日」

 

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「盛」

 

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聖武天皇 御歌」



 様々な事が思いだされる。1984年に初めての海外である中国に行った。北魏時代の書は石碑、つまり拓本からしか学ぶことができないが、当時の肉筆はどうだったのか?これを調べるために敦煌莫高窟を訪れ、北魏時代の壁画に書かれている文字を見た。この訪中が中国語を学ぶきっかけとなった。1987年には欧州にも行った。大英博物館に所蔵されている木簡の実物を見た。学生時代のこうした海外の体験は私の血となり肉となった。貴重な財産だ。どれもいい思い出である。

 

 訃報を聞いたときは驚いて思考が止まったが、不思議と悲しさは感じなかった。否、感じることを通り越して麻痺してしまったのだ。師を失ったことの精神的なダメージは私の想像を遥かに超える大きさと深さであった。以来、私は創作活動をしていない。出来なかったのだ。墨をすり筆を持つ気持ちにはならなかった、なれなかった。その間に出品した作品(臨書展なども)はすべて2012年以前に制作したものばかりである。

 

 2019年5月7日。あれから7年経った。この文章を書くことで一つの区切りとすることが出来る。先生と出会い学んだことを自分の生きる肥やし、創作活動の糧としていく。

  今は私を育てて下さったことに感謝しかない。

 

顔真卿

 今年1月、東京国立博物館平成館で開催された「顔真卿 ―王羲之を超えた名筆―」を見に行った。顔真卿の『祭姪文稿』が日本初公開と大々的に宣伝され話題を呼んだ。私自身は90年代に台湾故宮博物院で1度見たことがあるので今回で2度目となる。

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 会場内は甲骨文から始まって篆書、隷書、行書、草書、楷書と文字の成り立ちと変遷、その時代の代表的な作品が実物や拓本で展示されており、誰もが理解できるように工夫されていた。どれも普段は書籍や印刷物でしか見ることが出来ない貴重なものばかりである。

 

 顔真卿の『祭姪文稿』の書かれた背景や内容については既にたくさんの書籍や書評があるのでここでは割愛するが、顔真卿の肉筆である『祭姪文稿』が今日現存していること自体が奇跡である。『祭姪文稿』『祭伯文稿』『争座位文稿』を「三稿」と称して顔真卿の行草書の名品と評価されている。「三稿」のうち『祭姪文稿』以外の『祭伯文稿』『争座位文稿』は真蹟が失われ、拓本としてのみ見ることができる。かつて中国は1966年~1976年の10年間の文化大革命で貴重な文化財を破壊しつくした。もし『祭姪文稿』がずっと中国に保管されていたならこの世から消滅していたかもしれない。この点にかんしては蒋介石、国民党がよくぞ台湾に持ち出してくれたと感謝するしかない。

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『祭姪文稿』(全文)「顔真卿 ―王羲之を超えた名筆―」図録より

 

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『祭姪文稿』(拡大)

 

 書家が臨書をする上で、肉筆か拓本かではその碑法帖を理解するのに雲泥の差といっていいほど違う。当たり前であるが肉筆は筆の穂先の動きや速度、強弱が理解しやすい。墨の濃淡や掠れ(掠筆)も一目瞭然である。筆意や筆勢、筆圧なども読み手(書き手)のレベルにもよるが把握しやすい。言わば生きた教材である。だからと言って肉筆からの臨書が簡単であるということではない。

 

 これが拓本だと全く違う。石に文字を書きそれを刻む。この段階で実際に書かれた文字と彫られた文字に差が生じるであろう。さらに石に墨を塗って拓をとる。石は摩耗し風化する。拓を取った年代や取り方によって文字の趣が変わる。拓本では周囲が黒、文字が白抜きとなる。拓本から筆意や筆勢を読み取るのは難しい。言わば死んだ教材である。しかしそれが拓本からの臨書の奥深いところでもある。想像力も必要だ。その拓本の文字を実際に筆で書いたらどうなるか、拓本の臨書はつまり想像の産物である。どれが正解かわからない。何故なら肉筆が残っていないので答え合わせが出来ないからだ。ここに難しさがある(甲骨文、金文の拓本は除く)。「死(無)」から「生(有)」を産む作業ともいえる。

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『顔勤礼碑』 「二玄社 中国法書選 42:顔勤礼碑」 より

 

 顔真卿といえば「三稿」よりも「顔法」(新法)の名称の方が世間では知名度が高いかもしれない。『祭姪文稿』などの「三稿」は見ての通り行草で書かれている。そこには円錐の筆を自由自在に全面をつかう八面出鋒、つまり王羲之の書法を見出すことができる。王羲之の書法とは何か?王羲之の書法とは古法である。顔真卿の新法にたいして古法と表現している。では顔法(新法)とは何か?これは主に顔真卿の楷書の筆遣いで、王羲之の古法が筆の全面を使う八面出鋒、側筆を基本としていることに対して、顔法(新法)は蔵鋒での直筆を基本としている。欧陽詢、虞世南、褚遂良によって築かれた楷書の典型の上に立脚しつつ顔真卿独自の風味が加味された。蚕頭燕尾(起筆がまるく蚕のあたまのようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つにわかれている)と評される。直筆なので筆を動かすのに自然と制限がかかり、線に厚みと深みがでる。また、顔真卿の楷書はその形から現在の活字のもとにもなった。

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『自書告身帖(建中告身帖)』 「台東区書道博物館図録」より

 

 重要なことは顔真卿王羲之の書法である古法をマスターしていたということだ。古法をマスターしてこその新法なのである。事実、顔真卿以降(唐時代以降)の書は徐々に俗っぽくなっていく。それは新法が流布した弊害でもあろう。新法は学びやすい。学びやすいという事は崩れやすいということでもある。初学の人がいきなり新法から学ぶのはこれと同じであり、俗っぽい書しか書けなくなる。比田井天来は臨書の模範になるものは、中国は唐以前、日本は平安の三筆までがいいと提唱している。さらに言うなら唐以前であっても顔真卿の楷書である顔法(新法)は順番としては古法を学んでから学ぶべきであろう。

 

 楷書のイメージが強い顔法(新法)だが、「三稿」のひとつである『争座位文稿』は、行草の中に自然と顔法の要素が加わっているのが顕著である。『祭姪文稿』よりもその傾向が強い。『祭姪文稿』は758年、『争座位文稿』は764年に書かれている。楷書の『顔勤礼碑』は779年(759年という説もある)、『自書告身帖(建中告身帖)』は780年と、顔法で有名な楷書は晩年に多い。書かれた年からも『祭姪文稿』よりもあとに書かれた『争座位文稿』がより顔法の要素が顕著であるのは自然なことである。そういう意味では、古法と新法の両方で表現されている『争座位文稿』が私の中では顔真卿の最高傑作である。もし『争座位文稿』の真蹟が現存していたら、『祭姪文稿』以上の評価であったに違いない。

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『争座位文稿』 本人所有の拓本より

年末恒例

 平成最後の正月が過ぎ去った。バタバタと慌ただしく過ごしたり、ゆっくり静かに過ごしたり、国内海外旅行に行ったり、寝正月であったりと、思い思いの過ごし方をされたのではないだろうか。大晦日は必ず紅白歌合戦を見る、家族揃って初詣に行く、親戚一同集まるなど、年末年始に必ずする事柄が決まっているご家庭もあろうかと思う。今現在私自身は特に決まりごとはないが、敢えて選ぶとすればNHKの「ゆく年くる年」と「ウィーンフィルニューイヤーコンサート」を見ることくらいである。

 

 小学生の頃、毎年年末は五目寿司(ちらし寿司)を作って観瀾先生の家に持っていくことが我が家の恒例行事であった。観瀾先生直伝の五目寿司である。私の父は国家公務員であり仕事納めは12月28日であったため、29日に仕込みをして、30日に先生宅へ持っていくというパターンであった。その日に向けて母は食材を準備する。主な具材はハス、人参、干し椎茸、かんぴょう。干し椎茸を戻すなど各食材の下準備をしたら、これらをみじん切りまでではないが細かく刻み、煮物を作る容量でみりんなどの調味料を加えて煮込む。そして1日寝かせる。

 

 各家庭や地域で様々な五目寿司があるが、観瀾先生直伝の五目寿司の特徴は、酢飯に使用する酢にある。鯖などの青魚を酢でしめる酢じめをする。酢に浸して魚の旨味を全て酢に引き出す。魚を〆ることが目的ではなく、旨味を引き出すことが目的なので、酢から取り出した青魚は旨味が抜けて美味しくはないらしい。3日間くらい漬けこんだら当日に砂糖と塩を適量加えて酢の完成である。

 

 こうして事前準備をしておき、当日朝に米を五合を炊く。ここからが家族の連携仕事である。酢飯は父が担当だ。米が炊き上がると、事前に十分に水にぬらして水を吸わせ、水気をふき取った直径約45㎝の寿司桶にご飯をあけ、水で濡らしたしゃもじで軽く混ぜ合わせたら、分量の特性酢をしゃもじに伝わらせるようにして全体にかけまわす。混ぜるときはしゃもじを大きく動かして、はじめは底から混ぜるように、次に米を切るように混ぜ合わせます。ある程度酢が混ざれば、あとはダマをなくすようにしゃもじを横に切るように細かく動かす。ごはんがつぶれないように、全体が特性酢をまとってつややかに輝くまで手早く合わせます。全体に混ざったら、ここで団扇担当の私の出番である。寿司飯を広げて団扇でパタパタと扇いで冷ましていきます。疲れて動きが鈍くなると父から手が止まってるぞと煽られる。表面の熱が取れたらしゃもじで上下を返しながら、全体が人肌ほどの温度になるまで冷まします。ここで作り置きしていた具材を投入して混ぜていく。

 

 父と私が酢飯を作っている間、母は卵を焼いて細かく刻んで錦糸卵をつくる。出来上がった錦糸卵を具材を混ぜた酢飯の上にのせていく。下のご飯が見えなくなるまで錦糸卵を寿司桶いっぱいに敷き詰める。観瀾先生直伝の五目寿司(ちらし寿司)の完成だ。粗熱を冷ましたら寿司桶に手ぬぐいをかけて蓋をし、持ち運べるように風呂敷で包む。寿司桶にびっしりと詰まった五目寿司は物凄く重たくて持ちにくい。これを父が懸命に観瀾先生宅へ持っていく。私は先生に見せるために通知表を持参する。以前このブログで書いたように『先生からお小遣い』を貰うためだ。

 

 毎年恒例ということは観瀾先生も五目寿司を楽しみにしていて、呼び鈴をならすと、「まあまあ!重かったでしょう!」と笑顔で出迎えて下さる。待ち構えていたかのように寿司桶の蓋をあけると黄色の錦糸卵がびっしりと敷き詰めらているのをみて、「まあ凄い事!」と目を輝かせて褒めて下さる。

 

 私たちの訪問にあわせて先生宅では毎年年末にお餅をつく。ただお餅をつくのではなく、「自動餅つき機」でお餅をつくのだ。昭和40年代後半に最新の「自動餅つき機」を購入し所有していたのである。初めて見る「自動餅つき機」に私は興味津々であった。特に糯米が炊き上がりこね始められて丸い塊になっていきペタペタと音をたてながらつかれていく様子がとても面白くてずっと眺めていた。出来上がったお餅は適当な大きさにして丸餅にする時もあれば、四角く切る時もあった。立派な鏡餅もある。私たちは準備されたお餅を持ち帰り、お正月に頂くのだ。

f:id:hsoukan:20190122103137j:plain 自動餅つき機

 

 この年末恒例行事は私が大学に進学したころまで続いた。私にとって昭和のよき思い出の「年末恒例」である。

夢百年

 観瀾先生は、先天性心臓弁膜症で10歳までの命と言われていた。両親も好きなことをすきにやらせ、明日は命がないかもしれないということが、自然とその日に出来ることはその日に終わらせ、翌日に持ち越さないという考えや行動になっていった。目の前のやるべきことを全力でやる。一旦行動すると自分の納得がいくまでとことん追求する。芸術家となるべき資質、下準備が幼少のころから出来ていた感じがする。

 

 日本画、お茶、琴などやりたいことは何でもやった。そして運命の出会いがある。故郷下関の赤間神宮で仲間と書の稽古をしている時に、自身が再発見した古法の普及とその教えを引き継ぐ人を発掘するために全国を回っていた比田井天来が突然稽古を見に来た。臨書している様子を見て、「明日東京に来なさい」とその場で言われた。この天来先生との出会いと言葉で書家の道を歩むことになった。

 

 10歳までの命と言われた先生が100歳の誕生日を迎えることを記念して、100年の歩みではないが、生い立ちを1冊の本にしてこの世に残すことにした。というのは、観瀾先生は比田井天来自らが発掘し、その後手島右卿から免許皆伝を言い渡された唯一の人物である。またアメリカのボストン美術館に、日本人で初めて作品が買い上げられた人物でもある。しかし自分が自分がと前に出ていく性格ではないため、周囲に対しても世間に対してもアピールすることはしない。だからこういった実績や経歴が埋もれてしまう。良い事も悪いことも含めて、人間北畑観瀾の100年を1冊の本にして、記録として後世へと残すことにした。

 

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 米国ボストン美術館買上げ作品「石」

 

 執筆は戦後間もない頃からずっと一緒に苦楽を共にしてお互いの世界を尊重しあい自己の理想とする世界を追求した言わば同志ともいうべき存在の畑村達氏。観瀾先生が100歳になる2年前の2008年頃から少しずつ準備を始めた。

 

 タイトルをどうするか?様々な案がでたが、観瀾先生はよく門人に「人生は遊べ遊べ、夢わくわくで好きなことを好きにしないと損だよ!」と口癖のように仰っていた。この言葉通り、先生はきっと夢わくわくで100年生きてきたに違いない。そこからタイトルを『夢百年』、副題として「夢に遊ぶ書家北畑観瀾」と名付けられた。「正統な学書を継承し 書の芸術を追求した 比田井天来 直系の愛弟子」という言葉も表紙に記載されることになった。表紙を見れば北畑観瀾先生の人物像がわかる算段だ。

 

 畑村氏からタイトルを揮毫してみないか?と話があった。大変光栄な話ではあるが非常に迷った。本来であれば師匠自らタイトルを揮毫するのが一番いい。師匠が書かない(書けない)場合は、通常のフォントでも構わないのではとも思った。何より恐れ多いし、出来上がったものを師匠が見てどう思うか?など考えていると、とても書けるものではない。しかし幼少の頃より可愛がって頂き、書家として、一人の人間としてここまで育てて頂いた御恩に今報いないでいつ報いるのだろうか?と思い直し、恩返しの意味も込めて引き受けることに決めた。

 

 書き始めてみるとこれが難しい。臨書でもないし、作品でもない。本のタイトルだから誰もが読めるものでなければならない。楷書で書いても芸がないしそれでは毛筆で書く意味がない。毛筆である温かみが出せればと、「木簡残紙」風な丸みのある表現にした。何パターンか書いた中からようやく最終稿が決まった。

 

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「夢百年」

 

 着々と準備が進む中、肝心の出版元が決まらないでいた。わけのわからない自主出版では意味がないし、最悪オンデマンドで出版することも検討していた。伝記本とはいえ、内容は書に関することが大半である。私は、かつて一時期天来書院でお世話になったことがあり、この本は天来書院から出版するのが一番いいと思った。天来書院は観瀾先生の師匠である比田井天来の御子息である比田井南谷の御息女の比田井和子さんが経営する書道専門の出版社であり、書道界では誰もが知っている。畑村氏の同意を得て、和子さんに打診をすると、大変有難いことに快諾して頂いた。

 

 『夢百年』はこうして世の中に出すことが出来た。奥付の発行日は2010年5月16日と、観瀾先生100歳の誕生日である。

 

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天来書院
http://www.shodo.co.jp/books/isbn-231/


 観瀾先生も本の出来栄えに大変喜んでおられた。その嬉しそうな表情が忘れられない。

観瀾楽しい

 2010年5月16日(日)、観瀾先生はこの日満100歳の誕生日を迎えた。数年前から認知症のような症状が少しずつ出始め、稽古日に門人が集まっても以前のような徹底した厳しい稽古、一点一画の細部にまでわたるミリ単位の細かい指摘が出来なくなっていった。「同じことは二度するな!」と1つの文字を100回書くなら100通りの表現で書き分けることが出来た先生が、古典の臨書や作品創作をしなくなった。これまでも何度か臨書や作品の創作を依頼しても、頑として受け付けなかったが、100歳を記念して何か書いて頂こうと、同居しているО(オー)さんと事前に相談をして準備をした。

 

 硯は先生愛用のものを使用し、筆、墨、画仙紙は私が用意することにした。素材は一番書き慣れているであろう先生の雅号である「観」と「瀾」を1文字ずつ。今までのように自由に書くことは無理だ、参考となる手本を用意すれば書きやすくなるかもしれない。堅苦しい楷書ではなく、伸び伸びとした草書である孫過庭の『書譜』から対象の文字を選び、拡大コピーをした。

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孫過庭『書譜』

 

 門人への稽古日がなくなってからも私は作品を書いて先生の指導を仰ぎに伺っていた。私の顔を見るとそれまでとはうって変わって活き活きと話だし、作品を批評し始める。作品を見せると先生が喜ぶし、作品を書くことが先生への恩返しにもなるとの思いだった。

 

 作品の指導が終わり、頃合いを見計らって、О(オー)さんが先生に話を切り出した。1番身近な存在のО(オー)さんからの頼みなら承諾するのではないか?との作戦だ。初めは拒否し続けていた先生もО(オー)さんの根気強い説得でようやく首を縦に振った。


 書きたくないと拒否するのは、以前のように思い通りに筆を動かせなくなったことを、人に知られたくなかったからなのか?先生は認知症のような症状が現れても作品を書こうとしていたと思う。実際に書いてみて違和感を覚えた。思った通りに筆(手)が動かないことを認識して愕然としたに違いない。書家として一番大切な腕を失ったのだ。書に人生を捧げた先生にとっては我々では想像がつかない程の精神的ショックだったことだろう。心が痛い。そのことが症状を加速させる要因の一つとなったことは間違いない。

 

 準備が出来た。久しぶりに筆を持ったからなのか、先生は書くことを怖がって躊躇しているように見えた。О(オー)さんと私は口出しせずに黙って見守った。意を決して筆にたっぷりと濃墨を含ませて書き始めた。先ずは「観」。何かを確かめるように慎重な筆遣いで書き上げたが出来栄えが不満だったのだろうか、画仙紙を交換するように私に指示をした。2回目は少し慣れたのであろうか、細かい部分を気にしながらも丁寧に書き上げた。さらにもう1枚。

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『観』(34x24cm)2010年

 

 「観」を書き終わると先生に変化が見えた。顔が活き活きしている。この調子ですぐさま「瀾」を書いて頂こうと、画仙紙を準備した。濃墨をたっぷりと付けた羊毛の捌き筆は狗尾草(エノコログサ)のようだ。筆を持った姿は背筋も伸びて堂々としていて、筆遣いは怖いくらいに迫力がある。「瀾」は1枚で完成した。

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『瀾』(24x34cm)2010年
 

 道具を片付けようとすると、先生がもっと書くと言い出した。私達は驚いて慌てて文字を選び、「楽」を書いて頂いた。夢中になって書く先生の姿は、書いて頂いた文字そのもので、まさに「観瀾楽しい(かんらんたのしい)」であった。

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『楽』(34x24cm)2010年
 

 先生がこれまで書いた作品と比べることは無意味である。100歳の先生が書いたということに価値があるのだ。残念ながらこの3点の作品は遺作展が初披露となってしまった。しかし100歳まで生きた証はしっかりと残すことが出来た。そういう場面に立ち会えて本当に良かった。今となっては感謝しかない。