壮観の放言高論

書のこと、師匠北畑観瀾のこと、中国語関係のことを中心に気ままに書いていきます。

夢百年

 観瀾先生は、先天性心臓弁膜症で10歳までの命と言われていた。両親も好きなことをすきにやらせ、明日は命がないかもしれないということが、自然とその日に出来ることはその日に終わらせ、翌日に持ち越さないという考えや行動になっていった。目の前のやるべきことを全力でやる。一旦行動すると自分の納得がいくまでとことん追求する。芸術家となるべき資質、下準備が幼少のころから出来ていた感じがする。

 

 日本画、お茶、琴などやりたいことは何でもやった。そして運命の出会いがある。故郷下関の赤間神宮で仲間と書の稽古をしている時に、自身が再発見した古法の普及とその教えを引き継ぐ人を発掘するために全国を回っていた比田井天来が突然稽古を見に来た。臨書している様子を見て、「明日東京に来なさい」とその場で言われた。この天来先生との出会いと言葉で書家の道を歩むことになった。

 

 10歳までの命と言われた先生が100歳の誕生日を迎えることを記念して、100年の歩みではないが、生い立ちを1冊の本にしてこの世に残すことにした。というのは、観瀾先生は比田井天来自らが発掘し、その後手島右卿から免許皆伝を言い渡された唯一の人物である。またアメリカのボストン美術館に、日本人で初めて作品が買い上げられた人物でもある。しかし自分が自分がと前に出ていく性格ではないため、周囲に対しても世間に対してもアピールすることはしない。だからこういった実績や経歴が埋もれてしまう。良い事も悪いことも含めて、人間北畑観瀾の100年を1冊の本にして、記録として後世へと残すことにした。

 

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 米国ボストン美術館買上げ作品「石」

 

 執筆は戦後間もない頃からずっと一緒に苦楽を共にしてお互いの世界を尊重しあい自己の理想とする世界を追求した言わば同志ともいうべき存在の畑村達氏。観瀾先生が100歳になる2年前の2008年頃から少しずつ準備を始めた。

 

 タイトルをどうするか?様々な案がでたが、観瀾先生はよく門人に「人生は遊べ遊べ、夢わくわくで好きなことを好きにしないと損だよ!」と口癖のように仰っていた。この言葉通り、先生はきっと夢わくわくで100年生きてきたに違いない。そこからタイトルを『夢百年』、副題として「夢に遊ぶ書家北畑観瀾」と名付けられた。「正統な学書を継承し 書の芸術を追求した 比田井天来 直系の愛弟子」という言葉も表紙に記載されることになった。表紙を見れば北畑観瀾先生の人物像がわかる算段だ。

 

 畑村氏からタイトルを揮毫してみないか?と話があった。大変光栄な話ではあるが非常に迷った。本来であれば師匠自らタイトルを揮毫するのが一番いい。師匠が書かない(書けない)場合は、通常のフォントでも構わないのではとも思った。何より恐れ多いし、出来上がったものを師匠が見てどう思うか?など考えていると、とても書けるものではない。しかし幼少の頃より可愛がって頂き、書家として、一人の人間としてここまで育てて頂いた御恩に今報いないでいつ報いるのだろうか?と思い直し、恩返しの意味も込めて引き受けることに決めた。

 

 書き始めてみるとこれが難しい。臨書でもないし、作品でもない。本のタイトルだから誰もが読めるものでなければならない。楷書で書いても芸がないしそれでは毛筆で書く意味がない。毛筆である温かみが出せればと、「木簡残紙」風な丸みのある表現にした。何パターンか書いた中からようやく最終稿が決まった。

 

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「夢百年」

 

 着々と準備が進む中、肝心の出版元が決まらないでいた。わけのわからない自主出版では意味がないし、最悪オンデマンドで出版することも検討していた。伝記本とはいえ、内容は書に関することが大半である。私は、かつて一時期天来書院でお世話になったことがあり、この本は天来書院から出版するのが一番いいと思った。天来書院は観瀾先生の師匠である比田井天来の御子息である比田井南谷の御息女の比田井和子さんが経営する書道専門の出版社であり、書道界では誰もが知っている。畑村氏の同意を得て、和子さんに打診をすると、大変有難いことに快諾して頂いた。

 

 『夢百年』はこうして世の中に出すことが出来た。奥付の発行日は2010年5月16日と、観瀾先生100歳の誕生日である。

 

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天来書院
http://www.shodo.co.jp/books/isbn-231/


 観瀾先生も本の出来栄えに大変喜んでおられた。その嬉しそうな表情が忘れられない。