壮観の放言高論

書のこと、師匠北畑観瀾のこと、中国語関係のことを中心に気ままに書いていきます。

観瀾楽しい

 2010年5月16日(日)、観瀾先生はこの日満100歳の誕生日を迎えた。数年前から認知症のような症状が少しずつ出始め、稽古日に門人が集まっても以前のような徹底した厳しい稽古、一点一画の細部にまでわたるミリ単位の細かい指摘が出来なくなっていった。「同じことは二度するな!」と1つの文字を100回書くなら100通りの表現で書き分けることが出来た先生が、古典の臨書や作品創作をしなくなった。これまでも何度か臨書や作品の創作を依頼しても、頑として受け付けなかったが、100歳を記念して何か書いて頂こうと、同居しているО(オー)さんと事前に相談をして準備をした。

 

 硯は先生愛用のものを使用し、筆、墨、画仙紙は私が用意することにした。素材は一番書き慣れているであろう先生の雅号である「観」と「瀾」を1文字ずつ。今までのように自由に書くことは無理だ、参考となる手本を用意すれば書きやすくなるかもしれない。堅苦しい楷書ではなく、伸び伸びとした草書である孫過庭の『書譜』から対象の文字を選び、拡大コピーをした。

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孫過庭『書譜』

 

 門人への稽古日がなくなってからも私は作品を書いて先生の指導を仰ぎに伺っていた。私の顔を見るとそれまでとはうって変わって活き活きと話だし、作品を批評し始める。作品を見せると先生が喜ぶし、作品を書くことが先生への恩返しにもなるとの思いだった。

 

 作品の指導が終わり、頃合いを見計らって、О(オー)さんが先生に話を切り出した。1番身近な存在のО(オー)さんからの頼みなら承諾するのではないか?との作戦だ。初めは拒否し続けていた先生もО(オー)さんの根気強い説得でようやく首を縦に振った。


 書きたくないと拒否するのは、以前のように思い通りに筆を動かせなくなったことを、人に知られたくなかったからなのか?先生は認知症のような症状が現れても作品を書こうとしていたと思う。実際に書いてみて違和感を覚えた。思った通りに筆(手)が動かないことを認識して愕然としたに違いない。書家として一番大切な腕を失ったのだ。書に人生を捧げた先生にとっては我々では想像がつかない程の精神的ショックだったことだろう。心が痛い。そのことが症状を加速させる要因の一つとなったことは間違いない。

 

 準備が出来た。久しぶりに筆を持ったからなのか、先生は書くことを怖がって躊躇しているように見えた。О(オー)さんと私は口出しせずに黙って見守った。意を決して筆にたっぷりと濃墨を含ませて書き始めた。先ずは「観」。何かを確かめるように慎重な筆遣いで書き上げたが出来栄えが不満だったのだろうか、画仙紙を交換するように私に指示をした。2回目は少し慣れたのであろうか、細かい部分を気にしながらも丁寧に書き上げた。さらにもう1枚。

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『観』(34x24cm)2010年

 

 「観」を書き終わると先生に変化が見えた。顔が活き活きしている。この調子ですぐさま「瀾」を書いて頂こうと、画仙紙を準備した。濃墨をたっぷりと付けた羊毛の捌き筆は狗尾草(エノコログサ)のようだ。筆を持った姿は背筋も伸びて堂々としていて、筆遣いは怖いくらいに迫力がある。「瀾」は1枚で完成した。

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『瀾』(24x34cm)2010年
 

 道具を片付けようとすると、先生がもっと書くと言い出した。私達は驚いて慌てて文字を選び、「楽」を書いて頂いた。夢中になって書く先生の姿は、書いて頂いた文字そのもので、まさに「観瀾楽しい(かんらんたのしい)」であった。

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『楽』(34x24cm)2010年
 

 先生がこれまで書いた作品と比べることは無意味である。100歳の先生が書いたということに価値があるのだ。残念ながらこの3点の作品は遺作展が初披露となってしまった。しかし100歳まで生きた証はしっかりと残すことが出来た。そういう場面に立ち会えて本当に良かった。今となっては感謝しかない。