壮観の放言高論

書のこと、師匠北畑観瀾のこと、中国語関係のことを中心に気ままに書いていきます。

有縁千里来相会

 高校受験。受験の結果だけみると所謂完全に「負け組」である。私立3校と都立を受験したが、志望校は不合格となり、滑り止めの1校と都立高校だけ合格となった。都立高校は当時学区制が施行されており、決められた学区内の高校しか受験できないようになっていた。私は第一学区であったので、日比谷、三田、九段、小山台、田園調布高校が主な有名校である。私は都立三田高校に合格したのだが、私立の滑り止めであった二松學舍大學附属高等学校へ入学することにした。何故そうしたのか今考えてもはっきりとした理由はわからないが、この選択が人生の岐路であったことは間違いない。二松學舍へ行くことが初めから決まっていたかのようにも思える。

 二松學舍は国文学や中国文学が有名な学校なので、高校に入学すると父の紹介で書を習い始めた。後に知ったことですが、師匠北畑観瀾の師匠は現代書道の父と称された比田井天来であり、明治時代に漢学塾二松學舍を卒業した大先輩であった。私はこの事を全く知らずに入学したのだから不思議な縁である。

 高1の夏休みに書の関係で中国に行くことになった。ちょうど授業では担任の浅野進太先生が唐詩を中国語で朗読していたこともあり、先生に中国に行くこと、中国語が勉強したいことを説明すると、自分が顧問をしている「中国語研究部」(以下中研)で是非勉強してみてはどうかとの勧めがあり即座に入部した。中国語が堪能でクラスの担任である浅野先生との出会いが、私が中国語を学び始めるきっかけとなった。中研ではテキストを使って発音と会話練習を中心に学習し、大修館書店の雑誌『中国語』の添削問題や朗読コンクールにも積極的に応募するようになっていった。そんな中、なんと中研に中国人が教えに来ることになった。名前は「文斯」、生粋の北京人である。今では外国語はその国の人から学ぶことは常識ですが、その当時高校の課外活動に中国人が教えに来ることは非常に稀な事であった。私はマンツーマンで文老師から活きた中国語を学ぶ幸運な機会を得て、水を得た魚の如く中国語学習に没頭していき、高3の時には中国語弁論大会に出場するまでになった。弁論大会への出場は中研創部以来初の出来事であり、浅野先生が非常に感動されていたことを今でもよく覚えている。

 中国語をもっと本格的に学ぶために私は二松學舍大学に進学した。入学後かつて浅野先生も一時期在籍していた「中国語文研究会」(以下語文研)に入部した。文科系の体育会系クラブともいうべきこの語文研で徹底的に中国語の総合力が鍛えられた。語文研には独自のグレード試験が導入されており、発音、朗読、作文、翻訳、ヒアリング、会話等妥協が全く許されない厳しいレベルが要求され、学校の授業よりも語文研の活動の予習復習に追われる毎日であった。取り扱う教材も新聞、文学作品、ニュースなど多岐にわたり、北京放送のヒアリング、中国語でのディベートが出来て当たり前の凄まじい集団であった。自分の語学力を高め、見聞を広める為に春休みに北京大学へ約1カ月半の短期語学留学も経験した。ちょうど89年の第二次天安門事件(六四事件)直前の頃である。3年になってからは執行部の一員として「語学指導委員長」という大役を仰せつかり、語学運営の総責任者としてクラブ全体を取り纏めていくことになり、大変貴重な経験をさせて頂いた。

 また語文研顧問の野村邦近先生(現名誉教授)の「野村ゼミ」では中国現代文学を研究した。外国文学を研究するにはその国の言語が必要不可欠であり、語文研で身に付けた語学力が非常に役に立った。物事の本質を探究するための方法論を学ぶことは、単なる文学研究ではなく、語文研やゼミという組織に於ける自分の役割や責任を自然と意識させることになり、社会人になるためのいい準備期間であったように思う。野村先生と出会っていなければ現在の私は存在しないといっても過言ではないし、語文研と野村ゼミは私にとってかけがえのない時間と空間であった。

 大学卒業後は「この木何の木気になる木」でお馴染みの日立で海外営業として家電製品の中国向け輸出販売を担当し、入社2年目には上海駐在、その後北京駐在となって新製品を担いで中国各地を飛び回った。私が学んだ中国語は「標準語、普通語、マンダリン」とよばれ端的に言えばアナウンサーが話す言葉である(標準語と北京語は違う言葉である)。しかし実際にはアナウンサーのように綺麗な発音で話す人などいなく、その地方独特な言い回しや訛り等、現地のいわゆる生の中国語に慣れることに一苦労した。また日本語でも難しい専門技術用語や専門知識を中国語で使いこなすことは本当に難しかったが、そのお蔭で自分自身がスキルアップ出来たと思っている。

 人生に於けるキーパーソンとなった北畑先生、浅野先生、文老師、野村先生と出会ったことは偶然であるが必然なことであったように思えてならない。偶然の出会いも自分の行動の結果如何で必然に変わり次なる出会いを引き寄せる。当たり前にやり過ごしている日々の出会いが、貴重な縁で支えられていることに感謝し、前進あるのみである。その結果また新たな出会いがあるかもしれない。

野球盤

 1975年(昭和50年)に観瀾先生は調布の小島町から保谷市本町(現在は西東京市保谷町)へ引っ越しをした。最寄駅は西武新宿線西武柳沢駅であったが、急行が停まらない駅であったため、西武新宿駅もしくは高田馬場駅から下りに乗車した場合は一駅先の田無駅で下車し、バスに乗り換えた。徒歩であれば約15分で着く距離だ。また、西武池袋線保谷駅からバスで行くこともあった。

 住宅街をくねくねと歩いていき路地を曲がって袋小路の突き当たりが目的の家だ。呼び鈴を鳴らすとワンワンワン!と「智ーちゃん」の元気のいい出迎え。私は7歳、小学2年生くらいだったと記憶している。その日は珍しく家族4人で先生宅を訪問した。おやつを食べ終わると「好きなもの買ってあげるから」と、先生と二人で散歩に出かけることになった。

 先生は子供の私に合わせてゆっくりと歩を進め、あれこれ話をしているうちに目的地である西武柳沢駅北口の富士街道沿いにある商店街に到着した。「欲しいもの言ってごらん」と言われるものの、何を買ったらいいのか決められずにいると、「それじゃCちゃんのを先に買ってからにしょう」と妹へは絵本を買ってもらいました。そして自分の番です。なかなか決まらないで商店街をうろうろしながらおもちゃ屋に入りました。「ここなら何かあるでしょ?」と先生が仰るので、私は咄嗟に欲しくもない目の前にあったカードゲームを指さした。先生は「本当にこれでいいの?」と私が欲しくないのがわかっていたみたいで、「じゃあ、これ!」と今度はちょっと欲しいプラモデルを指さしました。先生はまた「本当にこれでいいの?」と私の様子を観察しながらニコニコと話しかけてきた。最後に私は「あれが欲しい!」と、棚の一番上にある大きな野球盤を指さした。レジで綺麗な包装紙で包んでもらい嬉しそうに足早に大きな野球盤を抱えて帰ると、今度は両親が驚いていた。まさかそんなに大きくて高いものを買ってもらってくるとは思ってもいなかったのであろう。

 

f:id:hsoukan:20180424164427j:plain(買って頂いた野球盤と同型の画像)

 

 それから25年後の2000年のとある稽古日。その日は私を含めて6人の門下生が訪問していた。休憩時間に私の子供の頃の話になり、観瀾先生が野球盤を買ったエピソードを皆に話始めた。「子供ながらに欲しいものをどうやって手に入れるか考えて、顔色を伺いながらまず初めに小さくて安い物、その次にちょっと大きくて値段がそこそこな物、最後に大きくて高い物と順を追って3段階にわけて、したたかで凄いんだから」と冗談交じりに話し懐かしそうな表情をした。しかし本当に凄いのは先生だ。私が忘れていたことも詳細までよく覚えておられたし、何より3段階にわけて欲しい物を自然と言わせるように誘導したのは先生ご自身だ。子供の私は自分なりに気をつかって遠慮していたのだが、先生の観察眼と優しさが私にそう行動させたに違いないのだ

犬の子守

 私が子どもの頃、観瀾先生は調布の小島町に住んでいた。京王線調布駅下車、徒歩5分とかからない場所であった。今はもう当時の建物はなく、アメリカンファミリー生命保険会社の立派なビルが建っている。物心つく前から幾度となく父に連れられて行っていたらしいが、かすかに覚えているのは玄関の扉の色が黒かったことと、お風呂場のタイルの色も黒であったことだ。

 子どもの頃は先生が書家であることも、以前は学校の教師であったことも知らなかった。しかし幼いながらに普通の大人と違った雰囲気を感じ取っていて、先生のところに遊びに行きたがっていたらしい。犬を一匹飼っていたので「わんわんのおばちゃん」と呼んでいた。飼い犬は柴犬で「寿星妃号『智』」という立派な名前がついていた。子供だったからだろうか、柴犬ではあるが1m以上もある大型犬のように感じた。先生からは「智(ち)ーちゃん」と呼ばれていた。父が玄関のチャイムを鳴らしてドアを開けると、必ず待ち構えていて吠えながら私に飛び掛かってくる。尻尾を振っているので歓迎の挨拶なのだが、如何せん子供の私はそんなことはわからず、ただただ怖かった。

 おやつを食べている時は私の後にきて前脚で肩をポンとたたく。気が付かないふりをしていると、今度はポンポンと二回たたく。それでも無視しているとポンポン「ワン!」と吠える。飼い主の先生や大人では相手にしてもらえないと思って、立場の一番弱い子供の私に「自分も食べたいから頂戴よ!」とおねだりしているのだ。どうやったら確実に食べられるのか考えて行動していたのである。先生から「智ーちゃん、やめなさい!」ととがめられると、「ワンワンワン!」と抵抗するのであるが、その抵抗が無駄だとわかると、恨めしそうな目で私を見て、空腹を満たすかのように水瓶の水をピチャピチャと飲んでおとなしくしていた。

 3歳のある夏の日、盆踊りなのかお祭りなのかは記憶が定かではないが、調布駅前の広場で縁日があり屋台がたくさん並んでいた。先生宅から作家のO(オー)さんに連れられて広場まできて、水遊び用の小さなおもちゃを二つ三つ買ってもらった。先生宅に帰ると、お風呂に水を張って買ってきたおもちゃで遊んだ。ネジを回して水面に浮かべると腕がぐるぐると回転して泳ぐペンギンや、ぷかぷかと浮く黄色いひよこ、小さな船もあった。ひとしきり水風呂で水遊びをして疲れたのだろう。浴室からでると私は寝てしまったらしい。すると犬の「智ーちゃん」がずっと私の枕元にいて、先生や父が近づくと「ウー」と少し諭すような鳴き声で近寄らせないようにしていた。子供が寝ているから近寄るなと言っているのだ。その様子を先生のお父さんが見ていて「犬が子守しよる」と言っていたそうだ。

 ペットを飼っていれば必ずお別れの時がくる。智ーちゃんの壮絶な最後は、作家畑村達氏が「『今日と明日の間で』角川書店 1989年4月」に詳細に記載している。また、同じく畑村達氏の「『アフガンの蝶―eメール・ストーリー』講談社ビジネスパートナーズ 2003年11月」には先に掲載した内容の簡略版が記されている。興味のある方は是非ご一読してみては如何だろうか?

 約17歳と長寿をまっとうした「智ーちゃん」は、今頃きっと大好きな先生の周りを元気に走り回り、幸せに過ごしていることだろう。

三十帖冊子(三十帖策子)

  1月27日(土)、東博で開催されている特別展「仁和寺と御室派のみほとけ -天平真言密教の名宝-」に行ってきた。様々な絵画、書跡、彫刻、工芸品が展示されているが、お目当ては『三十帖冊子』である。

 『三十帖冊子』は空海が唐の長安で写経生を集めて書写させて持ち帰った経典や儀軌類の冊子である。もともとは三十八帖あったが現存するのは三十帖であるので『三十帖冊子』と呼ばれている。1月16日(火)~28日(日)限定で全帖が一挙公開されると知り(1月30日(火)以降は2帖ずつ公開)、この機会を逃してなるものかと足を運んだ。

 最大の目的は、『三十帖冊子』の中に空海の自筆部分があり、その実物を見ること。印刷された法帖との微妙な違いがわかればしめたものである。私はその場で見比べる為に恥も外聞も捨て、法帖を持参していった。

 一か所にじっと立ち止まって見るわけにはいかないため、何度も列を並び直し実物を食い入るように見た。はたから見たら単なる迷惑で邪魔な見学者であっただろう。しかし実物を見る機会は滅多にあるものではないし、もしかしたらもう見ることが出来ないかもしれない。そういう思いが私の理性を少しだけ失わせたのだ。

 空海自筆の部分は見ればすぐわかる。写経生が書写した部分は、間違えのないように丁寧に細かく基本的に楷書で書かれているが、空海自筆部分は主に行草で書かれている。写経生だけでは書写が間に合わないからと空海も自ら筆を執ったと言われている。時間に追われているときにゆっくりと楷書で丁寧に書写するわけがない。時間短縮のために行草で書写したことがより王羲之(おうぎし)の書法をマスターした空海の特徴が表れていると言える

f:id:hsoukan:20180227144331j:plain第一帖(部分) 写経生書写

(図録『仁和寺と御室派のみほとけ』(読売新聞社発行)より転載)

 

f:id:hsoukan:20180227144355j:plain第七帖 (部分)写経生書写

(図録『仁和寺と御室派のみほとけ』(読売新聞社発行)より転載)

 

f:id:hsoukan:20180227145248j:plain第十五帖 (部分)空海自筆

(図録『仁和寺と御室派のみほとけ』(読売新聞社発行)より転載)

 

f:id:hsoukan:20180227145403j:plain第二十七帖(部分)空海自筆 (『弘法大師 三十帖冊子』(清雅堂発行)より転載)


 空海の代表作といえば誰もが『風信帖』を思い浮かべるが、『三十帖冊子』の空海の主要な自筆部分は『風信帖』ではなくむしろ『金剛般若経開題残巻』の書風に近い。しかし『金剛般若経開題残巻』ほど線に冴えや伸びやかさはない。これは書写したものと自ら文章を書いたものの違いと、紙面や文字の大きさの違いによるものであろう。

 第十四帖の空海自筆部分は経典の書写ではなく三十帖冊子の内訳を目録として書き記したもので(この目録には三十八帖であることが記されている)、文字も大きいため、より『金剛般若経開題残巻』に通じる筆意が感じられるf:id:hsoukan:20180227145457j:plain第十四帖(部分) 空海自筆

(図録『仁和寺と御室派のみほとけ』(読売新聞社発行)より転載)

 

f:id:hsoukan:20180227154845j:plain

 『金剛般若経開題残巻』(部分)(奈良国立博物館 HP 収蔵品データベースより転載)

 また、第二十三帖は一見殴り書きといった感じであるが、写経の範疇をこえる大胆不敵なスケール感で、写経生であったら絶対にありえない臨機応変な感じが、『灌頂記』を彷彿とさせる。f:id:hsoukan:20180227145622j:plain第二十三帖(部分) 空海自筆

(図録『仁和寺と御室派のみほとけ』(読売新聞社 発行)より転載)

 

f:id:hsoukan:20180227145644j:plain『灌頂記』(部分)   (『灌頂記』帝室博物館御蔵版(太平社発行)より転載)


 他の帖にも空海自筆部分があるが、どれも見応えがあり素晴らしい。

 さらにこの『三十帖冊子』には平安時代の「三筆」の一人と称される橘逸勢(たちばなのはやなり)が書写したとされる部分がある。醍醐天皇の『延喜御記』には、空海橘逸勢とが書写したと記されており、橘逸勢も書写したことは間違いないはずだ。しかしどの部分かが不明であった。これを発見したのが比田井天来である。第二十九帖後半部分が橘逸勢の書であると断定したのだ。第二十九帖のこの部分は、写経生のきめ細かな書写とは違い文字の大小や行間が不ぞろいで、写経に慣れていない者が書いたことがわかる。しかもその書風は一見稚拙に見えるがそうではなく、雄大沈着で紙を突き破るような深い線である。出だしは慎重に書き始めているが、終盤部分になるとだんだんと一文字一文字が大きくなって紙面一杯になり、今にも飛び出してきそうなスケールの大きい豪放磊落な書風へと変化していく。嫌々書いたものではなく興に乗って楽しんで書いた証拠である。比田井天来曰く「豪放不羈」な書である。空海や写経生の書写とは明らかに違う。比田井天来はこれを看破し、第二十九帖の後半部分こそ橘逸勢の書跡であると断定した。しかし歴史的に証明されたわけではないため、現在でも「橘逸勢書」ではなく「伝橘逸勢書」と「伝」が付けられている。 

f:id:hsoukan:20180227145813j:plain第二十九帖 伝橘逸勢書(冒頭部分)
(独立書人団創立三十周年記念出版『傳 橘逸勢 三十帖策子』より転載)

 

f:id:hsoukan:20180227145838j:plain第二十九帖 伝橘逸勢書(終盤部分)
(独立書人団創立三十周年記念出版『傳 橘逸勢 三十帖策子』より転載)


 『三十帖冊子』の法帖は、天来書院より第二十九帖の橘逸勢の箇所が『拡大本三十帖策子伝橘逸勢書』として発売されている。空海自筆部分は第二十七帖が清雅堂より『弘法大師 三十帖冊子』として発売されていたが既に絶版となっている。法藏館からは総本山仁和寺監修、三十帖全帖の原寸大完全復刻で『国宝 三十帖冊子』が受注制作であるが発売されている。但し金額が税込1,566,000円とそう簡単に手が出せる価格ではない。法帖としては他には明治四十二年博文堂刊行の『三十帖冊子』などがあるが、いずれも絶版で入手困難となっている。

 天来書院、二玄社といった書道専門出版社からの発行予定はないのだろうか。『三十帖冊子』が注目されている今がその時でありチャンスだと思うのだが。書の法帖用として空海自筆部分の出版発行を切に願う次第である。

大雪

 2018年1月22日(月)、その日は午前中からチラチラと雪が降り始め、午後になると本格的な降雪となった。午後3時を過ぎると職場では早めの帰宅指示が出された。都内のJR品川駅や渋谷駅ではホームへの入場規制がされ、一部列車の運休や間引き運転で混乱を来したが、なんとか無事帰宅できた。本日2月2日(金)の朝も昨晩から降り始めた雪で高速道路や飛行機などの交通機関に影響がでたようだ。

 30数年前のある稽古日、稽古材料を持って観瀾先生宅を訪問した。予報では午後から雪となっていたので早めに帰宅しようと思っていた。その日先生宅を訪れたのは3人。Iさん、Mさんと私。この3人は先生から特訓と称して短期間で徹底的に仕込まれたメンバーで、弟子の中では年齢が若くて近かったため(弟子の最年少は私です)、仲が良かった。稽古が始まるとまさに真剣勝負で時間が経つのも忘れるほどに夢中になって臨書した古典の原本を見たり、お互いの作品の批評をしたり、先生の原本の筆遣いの解釈を聞き漏らすまいと必死であった。ふと気が付くと外はすでにチラチラと雪が舞っていた。その時はまだ早めに帰れば大丈夫だと思っていたが、しばらくすると2階から同居している作家のO(オー)さんが下りてきて「京王線が雪で不通になった」と私たちに告げた。庭を見ると雪が勢いよく降っていてすでに10センチ以上積もっていた。その日は日曜日、私は学生であったので何てことはないが、国会議員秘書のMさんは翌日は仕事。途方に暮れていたが仕方がない。しばらくすれば復旧するかもしれないと淡い期待をしていたが、残念ながらその期待は裏切られ、私たち3人は先生宅に泊まることになった。

 その晩は、有り合わせの食材で鍋をした。幸いに鯛の切り身が少しあったので「鯛ちり」だ!と盛り上がり、「にわか鯛ちり」をみんなで美味しく食べた。みんなでワイワイと色んな話をしたが、その中心となるのはやはり観瀾先生だった。先生はご自身が体験した様々なことを鮮明に覚えており、それを面白おかしく話して下さる。時には真面目に。しかし最後は必ず「辛抱は美徳じゃない!」、「好きなことを好きにやって、人生楽しまなきゃ損だ!」、そして「自分を大切にしなさい。自分を大切にできない人が、他人を大切にすることは出来ない!」という結論になるのであった。今でも先生の声や口調が鮮明に思い出される。

 先生宅には何故か弟子ではない私の父専用の蒲団がある。私はそれを押し入れから引っ張り出し、IさんMさんは来客用の蒲団を引っ張り出して、稽古場に川の字に並べて就寝した。私は先生宅に泊まる変な緊張でなかなか寝付けなかったが、意識は次第に深い闇に染まっていった。

先生からお小遣い

 小学校の終業式が終わると、父に連れられて北畑観瀾先生の家によく遊びに行った。ひとしきり話が終わると、恒例の時間がやってくる。通知表を見せる時間だ。先生は通知表の成績を見てお小遣いを下さるわけだが、その方法が変わっていた。一般的には成績の結果は関係なく頑張ったわねと一定額をもらうことが多いと思うが、先生はお小遣いの渡し方も独創的であった。先生の渡し方はこうだ。前回の成績と比べて一つ上がっていれば1,000円くださる。例えば前回国語が4、社会が4であり、今回がそれぞれ5になっていたら2,000円という計算だ。逆に下がっていればその分マイナスである。プラスとマイナスを相殺して、前回より上がった分だけお小遣いがもらえる。非常に理にかなった方法だ。この方法なら子供ながらもらう金額も納得できる。

 しかし成績は上がる時もあれば下がる時もある。ある時実際に成績が前回より下がってしまった。この場合この方法だと一銭ももらえないことになる。子供ながらにガッカリしていると先生から魔法の言葉、「これは貸しだからね」。「前回から2つ下がっているから、この2,000円は貸しだからね」と先生はにっこり笑って私にお小遣いを下さった。お小遣いをもらえたことは嬉しかったが、何とも不思議な感じであった。先生からお小遣いを借りるなんて、どう考えてもおかしい。

 次に通知表を見せるとき、先生は「今回3つ上がったけど、確か前回貸しが2つなかったぁ?」と少しとぼけた表情でちらりと私を見た。前回のことをしっかりと覚えていたのだ。本来なら3,000円もらえるのであるが、2,000円は貸したぶんの返済となり、実際もらうのは1,000円となる。こんな不思議なやり取りが数年続いた。

 普通にお小遣いをあげるのはつまらないからとの遊び心であったのだろうか。先生と私の年齢差は58。祖母と孫の年齢差である。先生は生涯独身であったので本当の孫だと思って接して下さったのだろうか。子供は不思議な生き物であると観察していたのだろうか。

 先生もこのやり取りを楽しんでいたことは間違いないはずだ。